理事長退任にあたって

ボルネオ保全トラスト・ジャパンの設立者であり、サバ州と日本で生物多様性保全・自然環境保護の活動に尽力された坪内俊憲氏が平成28年5月31日に理事長を辞任されました。辞任にあたって坪内さんから寄稿いただきました。

理事長退任にあたって

2003年2月、国際協力機構(JICA)から「ボルネオ生物多様性生態系保全プログラム(BBEC)」に派遣されて13年。2006年10月、保護区生態系をつなぐ緑の回廊の設置を掲げて現地に環境団体『ボルネオ保全トラスト』を立ち上げて10年。2008年、たくさん素晴らしい仲間とともに日本で『ボルネオ保全トラスト・ジャパン』を立ち上げて8年が経過しました。

まだ緑の回廊設置の先が見えてこない、あれもこれもやらなきゃならないという最中ですが、設立当初から務めさせていただいたボルネオ保全トラスト・ジャパンの理事長を辞任させていただくことにしました。

支援していただいてきたみなさまには突然の辞任のように思えるかもしれませんが、日本での経験が少ない私とは異なる観点、視点から緑の回廊プロジェクトを進め、ボルネオ島の生物多様性保全を推進するには適切な時期と考えています。

ボルネオ島で『ボルネオ保全トラスト』を設立

思い返せば、タビン(約12万ha)とクランバ(約2万ha)という2つの野生生物保護区の生態系をつなぐセガマ川下流域野生生物保全区の設置に試行錯誤している時、どうしてもつながらない個人所有していた120haの熱帯雨林(のちにアブラヤシ農園になってしまいました)を買い戻す方法として、市民や民間から資金を集めて土地を購入する組織設立を、当時のサバ州野生生物局パトリック局長とローレンシウス副局長に「セガマ・トラスト」として提案したのが2003年11月でした。

野生生物局にとって優先課題であったキナバタンガン川下流域の隔離分断された保護区生態系をつなぐ2万haの緑の回廊をつくることを優先課題として、設立に合意できました。紆余曲折あったものの、株式会社サラヤの更家悠介社長の参加を得て、パトリック局長命名の『ボルネオ保全トラスト』を設立することができました。

目標が120haからいきなり20,000haへ拡大し、必要資金も数千万円から240億円と天文学的な数字になりました。しかし、数十カ国の環境保全現場での経験から「熱帯雨林は私たちの子供たちが地球で生きていくための最後の砦」と考えるようになっていた私は、地域社会を、国を、宗教や文化を超えて、子供たちが地球上で生きていける社会の仕組みを作らなければならないし、私の残った時間を使うのにふさわしい仕事と考えました。

初めての土地獲得

2008年1月、日本の皆様からの支援を得て、2haの小さな森を購入することができました。「アジアの森はアジアで守る」をテーマとしてサラヤ・ボルネオ調査隊が派遣され、その小さな森を案内した時、私は胸が詰まり、涙が出て、うまく説明することができませんでした。

「緑の回廊の2万haを作る。そのための240億円を私たちの活動にください!」という荒唐無稽なことを言い続けた私ですが、皆様の支援のおかげで嘘つきではなくなりました。目標のたった0.01%の小さな小さな森ですが、ゼロではなくなったのです。子供たちの命が0.01%つながった、という思いがこみ上げてきました。

野生動物と共に生きていくことのできる未来をつくる

サバ州におけるボルネオ保全トラスト活動は、3代目の理事長としてマレーシア政府一次産業農園業省の前大臣を迎えることができ、緑の回廊設置を政府の第11次国家開発計画に組み入れるチャンスを得ました。しかし2012年からの現地での事件や政治的な動きに巻き込まれ、実現できませんでした。環境保全活動にはこのような紆余曲折は当たり前で、諦めたら失敗したことになるし、子供たちに申し訳ない。諦めなかったら失敗したことにならない。子供たちがいつまでも野生のオランウータン、ボルネオゾウ、スマトラサイ、テングザルや多様な生き物を見ることがき、輝く熱帯雨林の生き物の命ととともに生きていける未来を作るという思いが揺らいではならない、との思いを強くしました。

悲しい事件

緑の回廊プロジェクトは日本の市民の支援を得て少しずつ増加してきていましたが、2013年には16頭のボルネオゾウ毒殺事件が報道された後、次々と毒殺されたボルネオゾウの死体が発見され、孤児ゾウが多数救出されるようになりました。

2015年には、野生生物局の下で専門的にスマトラサイの調査をしてきたBoRA(Borneo Rhino Alliance)がスマトラサイの野生絶滅を宣言しました。アブラヤシプランテーションの拡大はとどまることなく、ボルネオ島全体で広大な熱帯雨林が失われ続けています。

石田さんへバトンタッチ

パトリック前野生生物局局長は心筋梗塞で早々と旅立ち、キナバタンガン川とセガマ川下流域で子供たちの環境教育を私と共に実施してきた小林毅先生も亡くなってしまいました。今年6月にはセガマ川下流域野生生物保全区の設置に4年間活動を共にしたシニア・レンジャーのヘルマンが癌のため急逝してしまいました。

目標を共にし活動した仲間が次々と去っていく中、私の残りの時間の中でどこまで目標に近づけるのか、どうやれば目標を達成できるのかについて自問自答を繰り返し、日本で大きな組織で働いたことがない私の日本での役割、サバ州での役割を問い直しました。

そして日本においては、私より公的機関にも民間組織にも働きかけることができる経験豊富な人に理事長を託し、私は現場との調整役を担いながら日本との架け橋となって次世代につないでいくことが身の丈にあった仕事ではないかと考えました。

幸い、設立からずっと理事として活動している元多摩動物公園副園長、現千葉動物公園の石田戢園長が理事長を快く引き受けてくださることになりました。私は理事長を辞任し、特別顧問として橋渡し役をさせていただきます。

今度に向けて

9年間、活動に参加してくれた皆さんの温かい心に支えられ、緑の回廊プロジェクトはもうすぐ100haを達成できそうです。千人にも満たない人の温かい心が、子供たちが生きていける最後の砦の100ha分作ることができるのです。

石田戢新理事長のリードのもと、皆さんの温かい心を日本中に広げて頂き、100haを200haに、200haを1,000haにとさらに大きくして、確固とした命の最後の砦を築いていただけることを信じています。

私はこれからも諦めず、身の丈にあった方法、かたちで皆さんとともに命の砦を築く活動を続けさせていただきたいと思っています。今後とも温かいご支援、ご協力を賜れますよう、よろしくお願い致します。

2016年8月12日
坪内俊憲